祭神は日本武命(ヤマトタケルノミコト)、橘姫命(タチバナヒメノミコト)、本殿は明治7(1874)年に再建され一間社流造り。鎌倉時代末期・元享2(1322)年、猿田豊前守吉清という人が創立したと伝わってはいるが証拠はない。慶安2(1649)年幕府より社領3石賜る。明治42(1909)年に近隣15社と合祀され、旧社「八剱神社」と村名をとって「高麗川神社」と改称。創建当初は土着の武士の氏神として、村の発展に伴い村社としての鎮守となる。2本のタブノキは樹齢400年の古木で、老樹のひこばえから成長したものと伝えられている。(神社掲示より)
境内は広いが、集会場など建築物の多く社叢は南側西側に欠けて成立しているが、薄さは否めない。社殿背後(西側)は比較的若いヒノキの植林となっているが、稲荷社の近辺にはサカキとしては大径木が2本存在している。
境内中央にはタブノキの巨木(県内でも有数)が2本そびえており、2本とも胸高直径2m弱はあるようだ。由緒によると元は1本の樹木だったようではある。しかし、サルノコシカケ等が根元に近いところから出てきており、処置の必要はありそうである。 また、鳥居付近にはユリノキの巨木(胸高直径1m以上)が有り、大正年間に植栽されたようである。
創立年代は不詳であるが、社家の古文書によると大宝3年(703)社殿修築という記述があって、口碑、伝説などがら推察するとがなりの古社と考えられる。慶安2年(1649)徳川家光から賜わった社領4石5斗の安堵状なども保存されている。
野々宮神社は関東地方では珍しく、狭山市に一社あるほかは近隣にはない。祭神や高麗川のほとりにあることや、拝殿内の絵馬に、奉献「太祓一万度」とあるところなどから、潔斎の宮・お祓いの神であり、京都嵯峨か紫野の野宮の分祠と考えられる。
例大祭は、毎年10月9日で、この際奉納される獅子舞は近隣のものに比へて勇壮で美しく、特に蛇をのむくだりは、他に例を見ないものである。(日高市掲示より)
野宮神社と天神社はすぐそばにある。
天神社:
高麗川左岸の高台にあり、ヒノキの植林の中にあるが、北側にはケヤキの巨木の伐採痕が、また小さな社殿の東側にもシラカシと思われる大径木の伐採痕がある。しかし、神社の規模からいって「屋敷神」の可能性もある。
野宮神社:
社殿は東を向いており歴史的には古さを感じられるが、背後の社叢はヒノキの植林で有り、30~40年生だろうと思われる。社殿はスギの大径木に半分囲まれており、正面左右にはソメイヨシノの大径木がある。境内には相撲場が設えてあり、力石も保存されている。参道は長く東に延びており、スギの大径木とおもわれる径1mほどの伐採痕が3つ残っている。
◎由来など:
高麗神社は、高句麗国の王族高麗王若光を祀る社である。高句麗人は中国大陸の松花江流域に住んだ騎馬民族で、朝鮮半島に進出して中国大陸東北部から朝鮮半島の北部を領有し、約700年君臨していた。その後、唐と新羅の連合軍の攻撃にあい668年に滅亡した。この時の乱を遁れた高句麗国の貴族や僧侶などが多数日本に渡り、主に東国に住んだが霊亀2年(716)そのうちの1799人が武蔵国にうつされ、新しく高麗郡が設置された。
高麗王若光は、高麗郡の郡司に任命され、武蔵野の開発に尽くし、再び故国の土を踏むことなくこの地で没した。郡民はその遺徳をしのび、霊を祀って高麗明神とあがめ、以来現在に至るまで高麗王若光の直系によって社が護られており、今でも多数の参拝客が訪れている。(日高市掲示より)
◎祭神など:
・高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)
有名な神社らしく参詣者が絶えない。皇室の方々の献木が多くみられ、なかでも第二鳥居前の浩宮皇太子殿下の「アズサ」(ミズメ)は目をひく存在だ。神木は社殿前のヒノキである。向かって左側が山側になっており、登ると水天宮が祀られているが、ほとんどはスギやヒノキの植林である。社殿北側の高麗家住宅(国重文)の前にはヒトツバタゴ(ナンジャモンジャ)があるし、タラヨウやサクラの大径木もあるが皆な植栽のようである。
▼樹木配置図
参詣者も多数いて境内の維持には十分と思われるので社叢調査は行わない。
▼地図(高麗神社へのアクセス)
【参考資料(リンク)wikipedia】
『風土記稿』に「梅原村の里正三郎兵衛が持なり、此正三郎兵衛はもと当村の民なりしが、高麗町を移せし時彼村に移住すと云」とあり、更に、『明細帳』に「創立詳ナラズ正中二年建立ノ棟札アリシ由口碑二伝フト雖モ棟札今存セズ。貞亨二乙丑年堀口西源同息三郎兵二氏子一同シテ再建後宝永六巳丑年二月廿六日水災アリ同七寅年三月氏子中ニテ再建」とあり、察するに三郎兵衛と関係の深い神社と思われるが、同人については不明である。また、宝永六(1709)年の水災については、鎮座地が山麓の高地であることから古くは高麗川辺に鎮座していたものと考えられる。(中略)社名九万八千は珍しい名前であるが、一説に九万(高麗)と八千(新羅)に由来するものという。この高麗地域は上古渡来人の住居した場所であることから興味深い説ではある。
(「埼玉の神社・埼玉県神社庁」より)
巾着田北側の高台に有り、参道の状態から頻繁に人の出入りは少ないと思われる。しかし、清掃は行きとどいており氏子組織は健全のようである。鳥居の向かって左側にはスギの巨木が有り、胸高直径は1mを超すと思われる。また、社殿向かって右側にはクスノキの巨木も有り、かなりの年数がたっていると思われる。スギやヒノキの大径木に社殿は囲まれているが、背後北側はヒノキの補植によるものだろう。社殿は小さく覆屋が設えてある。
▼樹木配置図
▼地図(久万八千神社へのアクセス)
【参考資料(リンク)wikipedia】
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