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<   2018年 09月 ( 12 )   > この月の画像一覧

大将軍神社

◎神 社 名 :大将軍神社(だいしょうぐんじんじゃ)

◎住  所:〒651-2263 神戸市西区平野町常本466

◎調査月日:2018(平成30)年9月26日(水)


◎由来など:

寛永元年(1624)に創建。

大正10年に村内の大年神社、天満神社を合祀した。社殿は平成5年3月に再建したもので、その際、石鳥居、狛犬を新設した。


◎祭神など:

・天照皇大神(アマテラシマススメオオカミ)

・菅原道真(スガハラノミチザネ)

・素戔嗚大神(スサノヲノカミ)

・大年神(オホトシノカミ)

・三柱神(ミハシラノカミ)

・大己貴命(オオナムチノミコト)


◎周辺状況:

農耕地、段丘の端、集落の端(市街化調整区域)


◎境内面積:

見た目では1,300㎡


◎社叢状況:

境内は空が開けて明るい


◎社叢見所:


▼樹木配置図


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▼地図(大将軍神社へのアクセス)




【参考資料(リンク)wikipedia】

クスノキウバメガシスギケヤキクロガネモチ

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天照皇大神

菅原道真

素戔嗚大神

大年神(年神)

大己貴命(大国主)



by shasou373 | 2018-09-26 00:10 | ■ 近畿地域

上大年神社

◎神 社 名 :上大年神社(かみおおとしじんじゃ)
◎住  所:〒651-2267 神戸市西区平野町西戸田字越前850
◎調査月日:2018(平成30)年9月26日(水)

◎由来など:
神社調書には「用明天皇春正月四日」とあるが定かではない。

◎祭神など:
・大年大神(オオトシノオオカミ)
・素戔嗚大神(スサノヲノオオカミ)
・愛宕大神(アタゴノオオカミ)
・多賀大神(タガノオオカミ)
・八幡大神(ハチマンオオカミ)
・住吉大神(スミヨシノオオカミ)
・春日大神(カスガノオオカミ)

◎周辺状況:
平地、農耕地、集落内(市街化調整区域)

◎境内面積:
見た目では450㎡

◎社叢状況:
ヒノキ・スギ林にクロガネモチ

◎社叢見所:
アベマキと小祠


▼樹木配置図

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▼地図(上大年神社へのアクセス)



【参考資料(リンク)wikipedia】
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大年大神(年神)
素戔嗚大神
愛宕大神(愛宕信仰)
多賀大神(多賀神社)
八幡大神
住吉大神(住吉三神)
春日大神(カスガノオオカミ)
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by shasou373 | 2018-09-26 00:07 | ■ 近畿地域

印路大年神社

◎神 社 名 :印路大年神社(いんじおおとしじんじゃ)
◎住  所:〒651-2266 神戸市西区平野町印路字畑屋敷166
◎調査月日:2018(平成30)年9月26日(水)

◎由来など:
元は谷崎一族の守護神社であった。印路地区には、大谷一族、谷河一族も住んでいて、それぞれが守護神社を祀っていたが、神社併合令により、明治39年に谷崎一族の神社に合祀した。
以来、神社の維持管理は三族が務めている。社殿は明治44年に再建、昭和35年に大修理を行った。

◎祭神など:
・猿田彦大神(サルタヒコノオオカミ)
・稲荷大神(イナリオオカミ)
・年徳神(トシトクノカミ)
・大己貴神(オオナムチノカミ)
・若宮大神(ワカミヤオオカミ)
・天照大神(アマテラスオオカミ)

◎周辺状況:
山麓、農耕地集落上端(市街化調整区域)

◎境内面積:
見た目では580㎡

◎社叢状況:
山麓のアラカシ林の中に鎮座

▼樹木配置図

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▼地図(印路大年神社へのアクセス)



【参考資料(リンク)wikipedia】
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猿田彦大神
稲荷大神
年徳神(年神)
大己貴神(大国主)
天照大神


by shasou373 | 2018-09-26 00:06 | ■ 近畿地域

皇大神社

◎神 社 名 :皇大神社(こうたいじんじゃ)
◎住  所:〒651-2267 神戸市西区平野町西戸田字石塚521
◎調査月日:2018(平成30)年9月26日(水)

◎由来など:
不詳だが、境内の石灯籠に「寛政五年三月九日 奉納」とあるので、寛政年間前後の創建と思われる。
社殿は、昭和56年に建て替えられ、同時に鳥居・灯篭一対も新設した。地元では御神山(ごうしんさん)と呼ばれている。
※寛政五年(1793年)

◎祭神など:
・皇大神(スメオオカミ)
・水天宮(スイテングウ)
・天児屋根命(アメノコヤネノミコト)

◎周辺状況:
平地、農耕地の真ん中(市街化調整区域)

◎境内面積:
見た目では260㎡

◎社叢状況:
県道に接す、農耕地の一角

◎社叢見所:
農耕地の真ん中にこんもりとした社叢

▼樹木配置図

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▼地図(皇大神社へのアクセス)


【参考資料(リンク)wikipedia】
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皇大神(天照大神)
水天宮
天児屋根命
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by shasou373 | 2018-09-26 00:05 | ■ 近畿地域

下大年神社

◎神 社 名 :下大年神社(しもおおとしじんじゃ)
◎住  所:〒651-2267 神戸市西区平野町西戸田字大歳山982
◎調査月日:2018(平成30)年9月26日(水)

◎由来など:
用明天皇二年(587)正月四日と伝えられている。
阪神淡路大震災で被害を受けたため、平成9年10月本殿・拝殿を瓦葺で改築再建した。

◎祭神など:
・大年神(オオトシノカミ)

◎周辺状況:山麓、集落上端、農耕地(市街化調整区域)

◎境内面積:
見た目では215㎡

◎社叢状況:
山麓の雑木林の中の小さな神社

◎社叢見所:
アベマキの双樹

▼樹木配置図


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▼地図(下大年神社へのアクセス)



【参考資料(リンク)wikipedia】
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by shasou373 | 2018-09-26 00:03 | ■ 近畿地域

木花咲耶姫神社

◎神 社 名 :木花咲耶姫神社(このはなさくやひめじんじゃ)
◎住  所:〒651-2266 神戸市西区平野町印路字畑屋敷198
◎調査月日:2018(平成30)年9月26日(水)

◎由来など:
創建年月日は不詳。本山は、富士山麓の木花咲耶姫命を祀る神社とされ、印路地区の有馬家にあったが、有馬家の長女が谷崎家へ嫁いだ際に神社も預けた。
それ以来、谷崎家が神社を維持管理している。
昭和35年に印路地区の人々の寄付により、本殿と拝殿を建て替え、昭和60年に谷崎家が周囲のブロック塀を改築した。
昭和21年の「神社明細書」には、「古老の言に依れば、文政天保年間頃(1818~1844)には乳貰神(にゅうせいしん)として非常なる参拝者ありと申し伝へ、今尚ほ当神社の別名を乳女郎大明神と謂ひ、近郊よりの参拝者あり」と記されている。昭和45年ころまで、母乳を授ける神様として信仰された。

◎祭神など:
・木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)

◎周辺状況:
平地、集落内、農耕地(市街化調整区域)

◎境内面積:
見た目では35㎡

◎社叢状況:
樹木はない

◎社叢見所:

▼樹木配置図

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▼地図(木花咲耶姫神社へのアクセス)


【参考資料(リンク)wikipedia】


by shasou373 | 2018-09-26 00:02 | ■ 近畿地域

印路日吉神社

◎神 社 名 :印路日吉神社(いんじひよしじんじゃ)
◎住  所:〒651-2266 神戸市西区平野町印路字岡前328
◎調査月日:2018(平成30)年9月26日(水)

◎由来など:
明石川沿いにある岡碇岩(おかいかりいわ)の上に鎮座している。
「岡碇」とは、かつて明石川を逆上がった舟を置く碇を下ろした船溜まりであったらしい。
社殿は昭和32年5月に新築。

◎祭神など:
・日向命(ヒュウガノミコト)--- 山王大権現

◎周辺状況:
平地、農耕地、小山の上(市街化調整区域)

◎境内面積:
見た目では970㎡

◎社叢状況:
雑木および竹林に囲まれる

◎社叢見所:
▼樹木配置図

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▼地図(印路日吉神社へのアクセス)



【参考資料(リンク)wikipedia】
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by shasou373 | 2018-09-26 00:01 | ■ 近畿地域

聖神社

◎神 社 名:聖神社(ひじりじんじゃ)

◎住  所:〒368-0001 秩父市黒谷2191

◎調査月日:2018(平成30)年9月1日(土)


◎由来など:

 当地は『續日本紀』に「武蔵国に、自然成れる和銅出でたりと奉し献れり」(原漢文)とある和銅採掘の地として有名で、地内には和銅山・和銅沢・銅洗堀・殿地・蔵人屋敷など和銅に因んだ地名が多い。

 当社は蓑山の一支脈である和銅山を背にして鎮座し、その創建も和銅の発見にかかわっている。社記によると、元明天皇の慶雲五年、この地から発見された自然銅を朝廷に献じたところ、これを喜んだ帝は直ちに年号を和銅と改め、武蔵国の庸・調を免じ、勅使として多治比真人三宅麻呂を下向させて銅山を見分して祝祭を挙行し、山麓 の清浄な地を選び神祠を建立して大日孁貴命・国常立命・神日本磐余彦命の三柱を鎮祭したという。これが当社の創建で、時に和銅元年(708)2月13日であった。また、創建当時、採掘した和銅13個と元明天皇下賜の銅製百足雌雄一対を内陣に納めたといわれる。この銅製百足は、銅の採掘の穴を百足穴と呼ぶことに由来すると考えられ、百足が繁殖するように鉱業も長く栄えることを祈ったものと思われる。口碑には、文武百官の参列を表現したという。

 次いで養老6年(722)11月13日に元明天皇を合祀し、秩父の総社と称した。

 往時の祀職は、『風土記稿』によると、吉田家の支配を受けていた増田家が務めており、同家には天明2年をはじめに四通の神道裁許状が現存する。現在、宮司を薗田武男、禰宜を増田忠三が務める。

 明治8年に村社となり、同42年には村内にある12社の神社を合祀したが、そのほとんどが跡地で祭祀が行われている。

 社殿の造営は社記に仁和3年(887)2月13日を始めとして文明13年・寛文4年・文化4年と記録されている。また、昭和40年には秩父市中町の今宮神社本殿を移築し、当社本殿とした。この一間社流造りの社殿肢は宝永6、7年にかけて大宮郷の工匠、大曾根与兵衛によって建立された立派なもので、その彫刻は桃山期の遺風をわずかに残し、活気に満ちたものである。なお、旧本殿は当社の脇に移され、大国主命を紀る和銅出雲神社として奉斎されている。

 創建当時、内陣に納められたと伝えられる和銅石13個と元明天皇下賜の銅製百足雌雄一対は、北谷戸家所蔵の『聖宮記録控』に「聖明神宮之儀に付(略)右之品々持参いたし置候」とあるように、御神体の紛失を恐れた北谷戸家がこれを持ち帰り、その後、長い間同家で保管していたが、昭和56年に創建1230年を記念して式典が行われたことを機に当社に移管された。この時、併せて同家の家宝である朝廷へ初めて献上された和銅石と同時に発掘されたという和銅石及び『聖宮記録控』一冊が奉納された。これらは、境内の一隅に建設された宝庫に納められている。(「埼玉の神社」より)


◎祭神など:

金山彦命(カナヤマヒコノミコト)

・国常立命(クニノトコタチノカミ)

・大日孁貴命(オオヒルメノミコト)

・神日磐余彦命(神武天皇)(カムヤマトイワレビコノスメラミコト)

・元明金命(元明天皇)(ゲンメイカガネノミコト)


◎周辺状況:

 秩父の黒谷にあり、和同開珎遺跡への入り口の地に鎮座している。社殿は今宮神社を移築したものであるという。 尾根の末端でほぼ南向きの山地斜面にあり、階段で参拝するようになっている。小規模ながら和同開珎関する宝物殿もあり貴重である。

 参道からモミ、シラカシ、アラカシやスギなどの大径木があり、社殿付近もモミ、カシ類やスギの植林などの混交林で囲まれている。社叢がどこまで続いているかは不明である。


▼樹木配置図


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▼地図(聖神社へのアクセス)



【参考資料(リンク)wikipedia】

モミシラカシアラカシスギケヤキ

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金山彦命

国常立命

・大日孁貴命

・神日磐余彦命(神武天皇)

・元明金命(元明天皇)



by shasou373 | 2018-09-01 00:05 | ■ 関東地域

番場町諏訪神社

◎神 社 名:番場町諏訪神社(ばんばちょうすわじんじゃ)

◎住  所:〒368-0041 秩父市番場町14-9

◎調査月日:2018(平成30)年9月1日(土)


◎由来など:

・諏訪渡りの神事/12月2日

 当諏訪本宮にお祀りされていますお諏訪様は俗説によると武甲山男神(龍神様)の「本妻さん」とよばれています。

 妙見祭礼(秩父夜祭)は、秩父神社女神の妙見様と武甲山男神が年に一度の逢瀬する祭りといわれ、このお忍びに気を悪くなされないようにと祭礼の前日の二日夜に諏訪本宮にお参りして「諏訪渡り神事」が執行されます。(江戸時代は祭礼当日朝に神事が執行されてことが記されています。)

 この神事は、二日午後七時、宮司宅前より高張を先頭に神職・番場町会役員・関係者・市場関係者・屋台町会代表者などが参列します。諏訪本宮に向かって太鼓・笛を奉奏しながら進行し、この祭場に於いて祭典が厳粛かつ盛大に斉行されます。

 また、三日の夜、屋台と笠鉾がこのお諏訪様の近くを巡幸する際は、いったん停止し、屋台はやしは休めるという風習は、巡路が変わった現在も残っています。(神社説明板より)

 

◎祭神など:

・建御名方神(たけみなかたのかみ)

・八坂刀売神(やさかとめのかみ)


◎周辺状況:

 市街地の市場跡にあり、現在は駐車場になっている一角に鎮座している。が、社叢といえるものはなく、胸高直径43㎝のヒノキが1本成育しているのみである。


▼樹木配置図


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▼地図(番場町諏訪神社へのアクセス)




【参考資料(リンク)wikipedia】
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by shasou373 | 2018-09-01 00:04 | ■ 関東地域

秩父神社

◎神 社 名:秩父神社(ちちぶじんじゃ)

◎住  所:〒368-0033 埼玉県秩父市番場町1-3
◎調査月日:2018(平成30)年9月1日(土)

◎由来など:

 古の面影を今に伝える柞の森を背に、雄々しく力強い山容を持つ武甲山を仰ぎ見るように鎮座する当社は、県内屈指の古社であり、その例祭は秩父夜祭の名で広く全国に知られている。

 「秩父」は、古代においては「知知夫」と宛て、一つの国を成していた。当時の知知夫国の範囲は、現在の秩父郡とほぼ等しいと考えられており、国の政務や祭胞を司る国造が置かれたのは、武蔵国に約1世紀先立つ、崇神天皇の時代であったと『國造本紀』に記されている。「瑞籬朝御世。八意思金命十世孫知知夫彦命定賜国造拝祠大神。」の記事がそれである。この『國造本紀』の記事は、国造の任命を伝えると同時に、当社の創建をも伝えている。すなわち、「拝祠大神」の一節である。社記には、允恭天皇の34年に、知知夫彦命九世の孫である狭手男巨が「遠き御祖の御璽を葉葉染の社に祀る」とあることから、まず八意思兼命(大神)が祀られ、後に知知夫彦命が併せ祀られたものと思われる。

 知知夫国はやがて武蔵国に併合され、その一郡となったが、平安初期においては、なお相当な勢力を有しており、当社もまたその勢力に支えられ、繁栄したと推察される。

 『三代実録』には、諸社への神階奉授の記録がある。これを県内の神社に限って見るならば、神階奉授の初期にあっては、当社が最高位に叙され、足立郡の氷川神社がこれに次いでいた。貞観7年になると正五位上であった当社を抜いて氷川神社が正四位下に昇進し、この関係は逆になる。最終的には、元慶二年に氷川神社は正四位上、当社は正四位下に叙されるが、これに次ぐ椋神社は従五位上、金佐奈神社は従五位下である。このことは、『延喜式』の神名帳では氷川神社や金佐奈神社が「名神大」となっているのに対し当社が「名紳小」であることから考えても勢力の変遷を示すものと注目できる。

 しかし、古くは大きな勢力を誇った当社ではあるが、延長五年に完成した『延喜式』に記されているのを最後に、明治維新に至るまで歴史上にその名を表すことはない。それは、律令制度の崩壊により、当社を支えてきた豪族の力が弱まるにつれ、当社も次第に衰徴していったためであろう。これに代わって登場するのが妙見社である。

 天慶年間、平将門と常陸大掾・鎮守府将軍であった平国香が戦った上野国染谷川の合戦で、国香に加勢した平良文は、同国群馬郡花園村に鎮まる妙見菩薩の加護を得て、将門の軍勢を撃ち破ることができた。以来、良文は妙見菩薩を厚く信仰し、後年、秩父に居を構えた際、花園村から妙見社を勧請した。これが、秩父の妙見社の創建であると、社記や『風土記稿』は伝えている。

 良文はその後、下総国に居を移したが、その子孫は秩父に土着し、秩父平氏と呼ばれる武士団を形成した。また、武蔵七党の丹党の惣領である中村氏も、秩父に土着した。

 中世の秩父においては、式内社秩父神社が忘れられ、妙見社が、奉斎する武士団に支えられて、交代したものと思われる。

 当初、妙見社は、秩父神社の北東の宮地(一説には大野原)(註:大野原愛宕神社参照)に鎮座していたが、嘉禎元年に落雷に遭い社監を焼失したため、翌年、幕府は再建を命じ、柞の森に妙見社を移し、火神である愛宕神を旧地に祀り、後難を防がした。正和3年に至ってようやく社股が落成し、遷宮が行われた。これについては、正和2年の『秩父妙見宮造営次第』(県指定有形文化財)が残されている。次いで、社記に「応永四年の秋七月、鎌倉の主将足利左馬頭氏侯、中村の氏、園田の氏此二氏に命じて神社の再興を営もふさしむ」とあり、丹党中村氏が奉斎の中心にあり、神職として薗田氏があって、今日の祭祀が整えられた時期はこのころと考えられる。

 永禄12年、甲斐国から秩父に攻め入った武田信玄は、郡内の有力な社寺に次々と火を放ち、焼き払った。このため、当社も社領を失い社殿は烏有に帰した。しかし、氏子らは天正元年に仮殿を造営し、同7年には鉢形城主北条氏邦が当社再建に着手するとともに社領七石を寄進した。天正18年に鉢形城が落城したため、この北条氏による再建は成らなかったものの、同19年には徳川家康から社領50石を加増され、57石となり、翌20年には家康の命により本殿の造営が行われ、次いで拝殿・幣殿が造営された。これが昭和30年に県指定有形文化財となった現在の社殿で、天正20年の棟札が現存する。構造は権現造り(本殿は三間社流造り)で、本殿・拝殿ともに極彩色の華麗な彫刻が施されている。とりわけ、拝殿正面左側の「子育ての虎」と本駿東側の「つなぎの竜」と題された彫刻は有名で当代随一の名工左甚五郎の手になるものと伝えられている。

 江戸時代の絵図を見ると、境内の中央に妙見社があり、その社殿を取り囲むように天照大神宮・豊受大神宮・神宮司社(知知夫彦と記す絵図もある)・日御崎社の四桐が配されている。神宮司社は、式内社である秩父神社の衰微した姿であるといわれており、斎藤鶴磯は『武蔵野話』の中で、この神宮司社について「この神祠は地主にして妙見宮は地借なるべし。(中略)妙見宮は大祠にして秩父神祠は小祠なり。諺にいへる借家をかしておもやをとらるゝのたぐひにて、いづれ寺院神祠にはえてある事なり」と評している。

 明治維新に際して行われた神仏分離を機に、当社は秩父神社の旧号に復することになり、祭神も八意思兼命・知知夫彦命の二柱に改められ(前述の神宮司社はこれにより廃)、妙見社祭神であった妙見大菩薩は天之御中主神として配記されることになった。

 明治4年に郷社となったが、同六年に県社に昇格し、次いで昭和3年には国幣小社となった。昭和28年には、同年逝去された秩父宮雍仁親王の尊霊を配祀し、現在に至っている。(「埼玉の神社」より)


◎祭神など:

八意思兼命(オモイカネノカミ)
・知知夫彦命(チチブヒコノミコト)


◎周辺状況:

 秩父地方の文化圏の中心、大宮郷にあり、秩父人の精神的依り代である。秩父市街地の中心にあるため、住宅や商店に囲まれ、道路で飛び地もできてはいるが、本殿の後ろには社叢があり、静寂が保たれている。禁足地的に守られている神域であり、昔から「柞乃杜(ハハソノモリ)」と言われていたという。

現在はケヤキの大径木が優占種の森になっている。ハハソとはコナラの古語(牧野植物図鑑)と思われるが、またナラ類の総称とも言われていて万葉集の歌などにも登場している。中間温帯林の二次林におけるコナラーヤマツツジ林に該当していたと推測する。この林分は中間温帯林の中で最も広範囲に分布していて河岸段丘などに発達し、昔から農用林として欠かせない存在であったという。また、コナラ林はアカマツ林とともに埼玉の暖温帯、秩父盆地を中心とする中間温帯などの代表的落葉広葉樹林である(埼玉県史)とも言われているので、後になり、台風などの被害を経てケヤキ、イチョウ、スギなどの植林が進んでシラカシなどが進入したのではないだろうか。



▼樹木配置図

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▼地図(秩父神社へのアクセス)



【参考資料(リンク)wikipedia】
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by shasou373 | 2018-09-01 00:03 | ■ 関東地域

「社叢見守り隊」の調査報告を掲載しております。


by shasou373