◎神 社 名 :狭山八幡神社(さやまはちまんじんじゃ)
◎住 所:〒350-1305 埼玉県狭山市入間川3丁目6-14
◎調査月日:2022年9月3日(土)
◎由来など:
入間川には当社と清水八幡神社の二社の八幡神社がある。
以下、「正徳三年癸巳9月15日 東武南県賤士植島昭武謹記之」の『八幡縁起』によって由緒を尋ねてみる。
入間川村にある成円寺は数百年を経た密教道場で、寺の鎮守は牛頭天王である。入間川村は奥州道の宿場として栄え、村の鎮守は木曾義仲の長男義高の墓所に祀られた社である清水八幡である。
木曾義仲は当地に生まれ、幼い時父が殺されたため、乳母の郷里木曾で育ち、15歳の時当地に戻り、結婚して一子義高をもうける。この時、家人が七カ所の清水を汲んで産湯としたところから、義高を”清水の冠者”と呼ぶ。源頼朝が伊豆に兵を挙げた時、木曾義仲もこれに加わる。義高は人質として鎌倉に住み頼朝の長女と結婚した。しかし、義仲が京で朝廷の不興をかい、粟津の原に討ち死にすると、義高も賊の一味と呼ばれ、当地に隠れたが、やがて追手に討たれ、当所に葬られる。この時、義高の妾の嘆きを哀れんだ母親(北条政子)は、義高の墓所に清水八幡を造営し、神田を奉納して菩提を弔った。以来近隣守護の社として崇敬される。応永9年8月に大嵐があり、入間川が氾濫し当社を押し流した。これより成円寺境内に移転する。
次に新田八幡であるが、正慶2年に新田義貞が鎌倉の北条高時を攻めた時、義貞の守護神八幡大菩薩の像を成円寺に奉納して戦勝を祈願し、大勝を得たので、八幡大菩薩の像を神体として、社を造営した。後に、清水八幡と並んで新田八幡と呼ばれた。
慶安2年に両八幡宮領五石一斗余、牛頭天王領三石七斗余、別当成円寺領一石余合わせて十石の朱印を受けた。
その後入間川村に疫病が流行し、村人が多く亡くなったので、成円寺住職某は寺鎮守牛頭天王に祈り”五香湯”の薬方を得て、これを施し、患者を救う。この薬は近隣に聞こえ人々は争ってこれを求めた。
この『縁起』に「新田八幡」と見えるのが当社である。本殿は享和2年の再建であり、周囲の壁面を中心に見事な彫刻に飾られている。正面扉脇彫刻裏に「上州勢多郡上田澤湧丸、並木源二襍訓作、享和壬戌夏六月彫之。上野國勢多郡深澤郷上神梅村、鏑木半二郎邦高彫之、享和2戌年6月ヨリ7月7日迄」の墨書がある。
『明細帳』に「元来八幡八雲両社ハ真言宗成円寺ニテ進退シ来リシモノ明治2年住職錟光寺ヲ廃シ神主トナリ青田義寛ト称シ、同7年村社八幡神社ノ社掌トナレリ」とあり、明治期の事情がうかがえる。
現在境内社となっている八雲神社は『縁起』の寺鎮守牛頭天王で、『風土記稿』に「牛頭天王社 社領三石七斗余、慶安2年御朱印、神体木像、村の鎮守」とあり、明治初めに社名を変更したものである。 (「埼玉の神社」より)
◎祭神など:
・菅原道真公
◎社叢状況:
入間川の河岸段丘上にある。境内は広いが大部分は駐車場になっており、少々悔やまれる。しかし、正殿後ろ、合祀社の付近にはかなりの樹木林が残っており、管理によっては社叢の自然更新も可能ではないかと思われる。面積が少ないのは気にかかるが、シラカシやケヤキの大径木もあり、武蔵野特有の林相をしている。また、拝殿向かって左にツガの大径木があり、この地方の寺社では珍しいと思われるが植栽かどうかは不明である。
▼樹木配置図
▼地図(狭山八幡神社へのアクセス)