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神明社

◎神 社 名 神明神社(しんめいじんじゃ)

◎住  所〒211-0053 神奈川県川崎市中原区上小田中6-43-1

◎調査月日2024年1月6日(土)


◎由来など

上小田中神明神社の創建年代は不詳ですが、宝永年間(1704~1710)に創建したらしい。


(上小田中村)神明社

村の中央なり。左小祠にて西向南に鳥居あり。宝永の頃の勧請なり。村内宝蔵寺の持なり。(新編武蔵風土記稿より)


創建年代は詳らかでないが、武蔵風土記の上小田中村の項に「神明社、村の中央にあり小宮にて覆屋二間四方、前に鳥居あり」と記され、古よりこの地の鎮守として、多くの崇敬者を集めている。(神奈川県神社誌より)


◎祭神など

・大日塼命


◎社叢状況

立木にはケヤキ、クスノキ、マツなど大径木が多いが、本数は少なく、剪定がきつい。社殿後方に公園があり、かっては社叢があったように思われる。

社叢評価:D


▼樹木配置図

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▼地図(神明社へのアクセス)




# by shasou373 | 2024-01-06 00:04 | ■ 関東地域

小杉神社

◎神 社 名 小杉神社(こすぎじんじゃ)

◎住  所〒211-0068 神奈川県川崎市中原区小杉御殿町1-1010

◎調査月日2024年1月6日(土)


◎由来など

小杉神社の創建年代は不詳だが、江戸時代小杉村と呼ばれていた当地周辺には杉山社、神明社、及び神明社の相殿に総社権現の三社があり、三社とも小杉村の鎮守となっていたらしい。総社権現は多摩川の決壊に伴い神明社に合祀していたようだ。昭和26年(1951)三社を合祀、小杉神社と改称した。


杉山社

西明寺の境内つづきにあり。村内鎮守三社の一なり。いつの頃の勧請なりやその年月を傳へず。例祭は9月29日隔年に行へり。村内西明寺の門徒正覚院の持なりしが、廃院の後本寺の持となれり。


神明社

小名山谷にあり。神明の例祭隔年9月29日、村民の持。相殿総社権現、神体は木の立像長1尺5寸束帯の状 なり。この社は正徳の頃迄は村のはづれ多摩川の傍にありて、則村内成就院の持なりしが、多摩川の岸缺崩れ 其地を失ひたれば、神明の社に合せ祭れりと。この二社に前の一社を合せて村内三社の鎮守とよべり。元徳3年の断碑一枚社地にありここに傳るゆへんをしらす。

(新編武蔵風土記稿より) 

    

◎祭神など

・天照皇大神


◎社叢状況

神木の大ケヤキが目立つ。境内の境沿いに樹木が立ち並んでいる。植栽と思われるヒマラヤスギ、サクラ、ヒノキ、マツ、イチョウなどがもう大径木になっている。社殿後方に自然木と思われるエノキ、アカガシがある。ヒノキなどを植栽して何とか窓らしき風景には成っている。

社叢評価:C


▼樹木配置図

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▼地図(小杉神社へのアクセス)



# by shasou373 | 2024-01-06 00:03 | ■ 関東地域

春日神社

◎神 社 名 春日神社(かすがじんじゃ)

◎住  所〒211-0051 神奈川県川崎市中原区宮内4-12-2

◎調査月日2024年1月6日(土)


◎由来など

宮内春日神社の創建年代は不詳だが、平治元年(1159)〜承安元年(1171)の頃、現在の中原区の宮内から井田の地域にかけて稲毛荘とよばれる荘園が成立、領主であった藤原氏九条家の氏神である大和春日大社(奈良県)の祭神を勧請して創建したと考えられている。当地旧宮内村の鎮守となっていた。


(宮内村)春日社

村の東の方字高瀬と云所にあり。村の鎮守なり。勧請年歴をしらず。社5間に3間南向なり。神体は赤童子なり。木の立像2尺許。この神体昔は画像にていと古き物なりしを、近き頃其形を彫刻せしと云。例祭は年々10月1日なり。社頭に木の鳥居をたつ。本地堂。本社に向て左にあり。本地薬師木の坐像長3尺許。堂は1間半に2間なり。末社八幡牛頭天王稲荷合社。本社に向て右にあり。


(宮内春日神社)別当常楽寺

社地のつづきにあり。新義真言宗小杉村西明寺の末。春日山医王院と号す。開山は行基菩薩なりと云。本堂11間に7間南向なり。本尊大日木の坐像にて長2尺許。縁起もあれどもつとも信ずべからざることのみなればはふぎて載す。されど応永年中の鰐口等ものこりしを見れば、古社なることは疑ふべからず。


寶物

鰐口一口。これは昔神社に掛置しものなり。その図上の如し。獅子木像二頭。いかなることに用ひしや由緒詳ならず。木は檜などの如く木理ありて古質にみゆ。石櫃。本社の後にあり。神霊いとあらたなれば近づくときは祟ありとてあへて近づくものなし。

苔むし埋りけれ創建年代は詳らかでないが、近年発見された「武蔵国稲毛本荘検注目録」に「平治元年御検注定、春日新宮免二町」と書かれ、平安時代には鎮座していたことが判明した。社伝によると、境内に鹿を放し「関東の春日様」と呼ばれ多くの参拝者で賑わったと伝える。又本殿蓑に昔から不思議な力をもつ石があり、これに触れると崇りがあると云われていた所より、石棺が発掘され、勾玉、管玉、高坏、須恵器等の祭祀遣物が出土している。現在の社殿は昭和三十五年に改築した。(神奈川県神社誌より)

ばおのづから朽て今は其形も見えず。二十年前までは僅に見えたりと云。

(新編武蔵風土記稿より)

  

◎祭神など

・天津児屋根命


◎社叢状況

社叢は県指定の天然記念物になっている。アカガシ、スダジイ、シロダモ、ケヤキなどを中心とした自然林の杜で東側を構成している。

社殿後方は更新可能な杜として成立していて、その中に植栽と思われるボダイジュの大径木もある。中高木層はイロハモミジなどもあり、これから維持すべき様相をしている。南側にはクスノキ、イチョウ、クロマツ、ヒノキなどの植栽木もあり大径化している。

社叢評価:A


▼樹木配置図

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▼地図(春日神社へのアクセス)




# by shasou373 | 2024-01-06 00:02 | ■ 関東地域

今井神社

◎神 社 名 今井神社(いまいじんじゃ)

◎住  所〒211-0067 神奈川県川崎市中原区今井上町7-13

◎調査月日2024年1月6日(土)


◎由来など

創建年代は詳らかでないが、当社は元、日枝神社と言い、武蔵風土記今井村の項に、「山王社、村の北の方にあり」と書かれ、又この地方を一時支配し平重盛が崇敬したと伝えられている。明治四十三年村内鎮座の稲荷社、厳島神社を山王社に合祀し、当時村名を取り今井神社と改称した。昭和六年、昭和三十六年に社殿を修復し現在に致る。(神奈川県神社誌より) 


○山王社(今井村

村の北の方にあり。例祭は年々9月14日。相傳ふ当社の勧請は鎌倉右大将家の頃にして、もと小宮筑後守入道道康が霊を祭りなりと。末社。稲荷社、本社に向て右にあり。


○弁財天社

村の南の方にあり。神体は木の坐像なり。これは増上寺の代官奥住惠十郎が建立する所なり。されば、近き頃よりのもちなり。前に木の鳥居をたつ。大乗寺持。


○稲荷社

村の中央にあり。是も大乗院持。末社。稲荷社、本社に向て右にあり。

(新編武蔵風土記稿より)


◎祭神など

・大山咋命


◎社叢状況

立地的には、河川の脇にある神社だが、大径木の立木があるのみで見るべき社叢はない。神楽殿後ろのタブノキや南にあるナギ、、西側のクスノキなど目立つ立木は存在している。

社叢評価:D


▼樹木配置図

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▼地図(今井神社へのアクセス)





# by shasou373 | 2024-01-06 00:01 | ■ 関東地域

菅谷神社

◎神 社 名 菅谷神社(すがやじんじゃ)

◎住  所〒355-0225 埼玉県比企郡嵐山町菅谷608

◎調査月日2023年12月2日(土)


◎由来など

菅谷は、都幾川の左岸に広がる東松山台地に位置し、その地名は山野に広く菅が自生していたことに由来する。この辺りには、古くから豪族が住み、村の開発を行っていたらしく、菅谷の地内にも古墳時代後期に作られた東原・向原・手山・稲荷塚の各古墳群がある。また、現在、埼玉県立歴史資料館や国立婦人教育会館のある場所は、源頼朝の有力な御家人として平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した畠山重忠の居館として知られる菅谷館の跡地である。

 男衾郡畠山荘(現大里郡川本町・江南町付近)の開発領主である畠山氏は、桓武平氏村岡良文の流れを読む秩父重綱を祖とし、重綱の孫の重能の時に畠山氏を称した。重忠は、長寛二年(一一六四)に重能の嫡子として生まれ、治承四年(一一八〇)八月に源頼朝が挙兵した際には、大番役のために在京中であった父に代わって弱冠十七歳でその追討に出陣した。しかし、同年十月に頼朝が房総を平定して武蔵に入るとこれに帰服し、木曾義仲の追討、宇治川や一の谷などでの平家との戦、更には奥州征伐にも従って武功を高めた。しかし、頼朝の没後は、武蔵国への進出を図る執権北条氏の策略によって元久二年(一二〇五)に二俣川(現横浜市旭区)で討死した。

 菅谷館跡は、この畠山重忠が本拠の畠山(現川本町畠山)から出て居誠を構えた所といわれ、重忠が謀殺された後も畠山氏が居館として用い、その後、長享年間(一四八七~八九)には扇谷上杉氏の臣である太田源六資康の城塞として拡張整備され、小田原北条氏の支配下ではその属将小泉掃部介の持城となった。なお、菅谷館跡は、平地に築かれた平城としては遺構の保存状態が極めて良いため、大正十二年には県指定史跡、昭和四十八年には国指定史跡となり、遺構の保存が進められている。

 当社は『風土記稿』菅谷村の項に「山主社村の鎮守なり、村持、下同じ、稲荷社天神社」と記されているように、本来は山王社もしくは山王宮と呼ばれていた。それが、明治初年に日枝神社と改められ、更に明治四十年四月十七日に字本宿の無格社稲荷神社と字城の無格社天神社の両社を合祀したことにより、村名にちなんで菅谷神社と改称した。稲荷神社は現在町指定文化財となっている稲荷塚古墳の墳丘上に、天神社は菅谷館跡三の郭の土手の上にあったもので、『風土記稿』に当社に続いてその名が見える。なお、稲荷神社には、畠山重忠が城の鬼門除けに祀ったものという由緒がある。

 社記によれば、山王社は建久元年(一一九〇)九月十九日に畠山重忠の誓願により、近江国(現滋賀県)坂本村に鎮座する日吉山王権現の分霊を奉遷勧請したもので、本殿の中には、その旨を串に記した幣束が安置されている。創建以降の動向については、資料がなく明らかではないが、菅谷の人々から村の鎮守として大切に祀られてきたものと思われる。

 本殿の前には「山王宮」と彫られた古い社号額が掛かっているが、この社号額は、熊谷市原島の福王寺を開基したことで知られる愚禅和尚が文化十年(一八二二)に揮毫したもので、齢八十の翁の書とは思えないほど活力に満ちたものである。この額は、明治四年に村社になった時、額面に「日枝大神」と書かれた板が貼り付けられ、明治四十年に菅谷神社と社号が改められてからは本殿の中に納められていた。それが、平成元年一月に偶然発見され、氏子総代の山崎宗朋・山崎欣治両名の計らいで、先人の文化遺産として大切に引き継ぐようにと再度掲げられることになり、額の由来を記した由緒書も両名によって奉納された。

 当社の境内にある秩父神社は、畠山重忠公を祭神としており、社記によれば、重忠公は菅谷に居住中に農工商の民を大変いたわったためその死を悼んだ民衆が、承永一克年(貞永元年・一二三二か)、重忠公の命日である六月十二日にその御霊を勧請して当社の末社として祀ったものという。また同じく末社の津島神社は、天明六年(一七八六)に、当時領主であった猪子佐太夫が自分の崇敬する尾張国(現愛知県)津島町に鎮座する津島牛頭天王社の分霊を祀ったもので、元は市神として字東側の路上に鎮座していたところを、明治四年に字西側に移転した。ところが、明治二十三年の大大で全焼したため、同四十年七月九日に当社の境内に社殿を再建して遷座し、当社の境内社として祀られるようになり、毎年にぎやかに夏祭りが行われている。(「埼玉の神社」より)


◎祭神など

・大山咋命


◎社叢状況

昭和60年に建替えられたようで、東西に参道が延びている。

参道にはスギ、ヒノキの植林と見られる大径木があるが、社殿の周囲にはアラカシ、モミ、スギなどの大径樹種が見られる。社殿の左手には神木と思われるスギの巨木があり、〆縄が巻かれている。 旧「ふるさとの森」である。


神楽殿前には木製のベンチが多数あり、祭事の時の賑わいを示している。東側の菅谷公園もかっては神社の境内にあったと思われ、池には「厳島神社」が祀られている。

社叢評価=B(幼樹が少ない)


▼樹木配置図

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神木:スギ


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参道



▼地図(菅谷神社へのアクセス)




# by shasou373 | 2023-12-02 00:02 | ■ 関東地域

「社叢見守り隊」の調査報告を掲載しております。


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